■Q&A気鬱を邪気としてはみないことについて
一元流鍼灸術では、患者さんの身体を理解するために四診を用い、その表現として言葉が豊富で使用しやすいため、中医学の用語を用いることが多くあります。そのため、中医学の研究家の方から、さまざまなご批判があるかと思われます。
> 説明の中で使われている‘気鬱’についてですが、
> 通常正気であるものが生体に対して病理産物になったり、
> 悪影響を及ぼす場合には名称が変わります。
> ですので、‘気鬱’という言葉を使った時点で即病邪を示すと
> 思われます。これは中医学に限らず、一般論だと思います。
気鬱というのが、どのように使われているのかというご説明を申し上げます。
気鬱というのは、気の鬱滞ということを意味しているに過ぎず、これは、気虚と相対する概念として使用しています。一つの生命体の中に気虚の部分と気鬱の部分が存在し、そのまだらの気の状態について濃い部分を気鬱、薄い部分を気虚と表現します。そのため、一元流鍼灸術では、それがそのまま病邪を意味するものとはしません。
この発想の原点は、張景岳の《景岳全書》〈命門余義〉の中の『飲食物を消化することができれば、それは必ず運行されるが、もし消化することができなければ、必ず留滞していく。消化されて運行されれば気血に化していくが、消化されずに留滞されるなら積となり痰となっていくのである。』という言葉あたりが参考になっています。
痰といえば内生の邪ですけれども、それも体内において生気と邪気とに融通無碍に変化すると景岳は考えていたのですね。
> 例として
> 自然界が寒いときにその事が体の陰気を補う作用に働いた時は
> ‘寒邪’が陰気を補ったとは言わないでしょう?
この例は、適切ではありません。邪という言葉を用いるときと、上に説明したような気鬱という言葉を用いるときを同一視することはできませんからね。
> 次に‘陽明腑実’ですが、この言葉イコール三承気湯の適応を意味すると
> 思います。
これは便秘の概念の一部を使用して、五臓の弁別の中で用いたものです。五臓の弁別の中では、特徴的な徴候を、あまり前提を用いずに書いていくという作業を行います。それを通して、ある症状をさまざまな角度から自在に眺められるようにし、それらの中から、全体観に基づいて病因病理を考え、それを整理統合していこうとする方法論を用います。ですから、何でもかんでも傷寒論を用いているという言葉はあたりません。
> 虚寒や寒邪内攻を主張されていて、上記の病理状態が共存しないこともないですが、
> もしその事を主張されるのであればそうとう絞り込んだ弁別が必要だと思います。
このために病因病理を考えているわけですね。
一元流鍼灸術では、患者さんの身体を理解するために四診を用い、その表現として言葉が豊富で使用しやすいため、中医学の用語を用いることが多くあります。そのため、中医学の研究家の方から、さまざまなご批判があるかと思われます。
> 説明の中で使われている‘気鬱’についてですが、
> 通常正気であるものが生体に対して病理産物になったり、
> 悪影響を及ぼす場合には名称が変わります。
> ですので、‘気鬱’という言葉を使った時点で即病邪を示すと
> 思われます。これは中医学に限らず、一般論だと思います。
気鬱というのが、どのように使われているのかというご説明を申し上げます。
気鬱というのは、気の鬱滞ということを意味しているに過ぎず、これは、気虚と相対する概念として使用しています。一つの生命体の中に気虚の部分と気鬱の部分が存在し、そのまだらの気の状態について濃い部分を気鬱、薄い部分を気虚と表現します。そのため、一元流鍼灸術では、それがそのまま病邪を意味するものとはしません。
この発想の原点は、張景岳の《景岳全書》〈命門余義〉の中の『飲食物を消化することができれば、それは必ず運行されるが、もし消化することができなければ、必ず留滞していく。消化されて運行されれば気血に化していくが、消化されずに留滞されるなら積となり痰となっていくのである。』という言葉あたりが参考になっています。
痰といえば内生の邪ですけれども、それも体内において生気と邪気とに融通無碍に変化すると景岳は考えていたのですね。
> 例として
> 自然界が寒いときにその事が体の陰気を補う作用に働いた時は
> ‘寒邪’が陰気を補ったとは言わないでしょう?
この例は、適切ではありません。邪という言葉を用いるときと、上に説明したような気鬱という言葉を用いるときを同一視することはできませんからね。
> 次に‘陽明腑実’ですが、この言葉イコール三承気湯の適応を意味すると
> 思います。
これは便秘の概念の一部を使用して、五臓の弁別の中で用いたものです。五臓の弁別の中では、特徴的な徴候を、あまり前提を用いずに書いていくという作業を行います。それを通して、ある症状をさまざまな角度から自在に眺められるようにし、それらの中から、全体観に基づいて病因病理を考え、それを整理統合していこうとする方法論を用います。ですから、何でもかんでも傷寒論を用いているという言葉はあたりません。
> 虚寒や寒邪内攻を主張されていて、上記の病理状態が共存しないこともないですが、
> もしその事を主張されるのであればそうとう絞り込んだ弁別が必要だと思います。
このために病因病理を考えているわけですね。
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