■知を探究する覚悟
知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にいま問うています。
知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味しています。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。
これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためにはそのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気のことをも意味しています。
探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよくあることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続けることもまた覚悟ということになります。
ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止めると、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。
知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これが汝自身を知れという言葉の真の中身です。
無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切なことであると私は思います。
知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にいま問うています。
知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味しています。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。
これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためにはそのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気のことをも意味しています。
探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよくあることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続けることもまた覚悟ということになります。
ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止めると、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。
知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これが汝自身を知れという言葉の真の中身です。
無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切なことであると私は思います。
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