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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■附録二:『臨床哲学の知』木村敏著


精神病理学の泰斗、木村敏氏は、その『臨床哲学の知』の中で以下のように述べ
ています。


症状と病気のこの関係は、精神科でも同じです。患者さんは症状を出すことで一
種の自己治癒のようなことをしているところがありますし、医師はそこを見極め
なければならないわけですけれども、いまは、精神病になるのは脳が生化学的な
変化を起こして例えばドーパミンなどという物質を出し過ぎるからであって、そ
れが幻覚や妄想を引き起こすんだといった考えにとらわれている。精神医学も症
状を消すことしか考えない。脳機能の研究自体は大切なのですが、それがもっと
深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解明を妨げているとしたら、
これは大問題でしょう。

家族や周囲の社会に迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけ
ているわけではない。だから、症状を除去することが周囲からの期待に応えるこ
とになる。症状が消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけを見る
というのと、患者自身のことより周囲の社会の安全を考えるというのとは、実は
同じことの両面なんですね。

わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取った
ら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られる
ということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われるということと同じで
すから、あとは自殺するしか仕方がなかったということなのだろうと思います。
まだ若いころの出来事ですが、そのときにこれはいけないと思いました。

症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以
来、いまもずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り
立たないし、妄想や幻想がひどいと患者さんの社会人としての評価にかかわりま
すから、薬はそれなりにやはり使いますけれども、それで症状をきれいに取って
しまおうなどということはまったく考えません。風邪と同じで、症状は出す必要
がなくなれば自然になくなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力が
あることの証拠なのですね。

しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というものは、まったくそうではなくな
ってしまいました。症状をとること以外は何も考えなくなってしまっています。
いまの状態が続けば、精神病理学という学問は、日本の医学界からいずれ消滅す
るかもしれませんし、ことによると実質的にもう消滅しているのかもしれない。
病理学というのは、これは身体の病理学でも同じだと思いますが、病気そのもの
の成り立ちを研究する学問であって、症状のことは、病気の本質と関係があるか
ぎりでしか問題にすべきではないのです。脳の変化を除去して妄想をとればそこ
でお終い、精神医学が行うのはそこまでということになっていけば、精神病理学
なんて学問は必要がなくなる一方でしょう。 」〈『臨床哲学の知―臨床としての
精神病理学のために』洋泉社刊 2008年 53p〉

この言葉は、症状とそれに対する処置として考案され、症状が取れたことを確率
的に論じる「エビデンス」を安易に語る傾向がある鍼灸界においても、噛みしめ
るべき言葉でしょう。

古典において提出されているものの中で重要なものは、単なる治療技術なのでは
なく人間観です。その人間観を読み解くことなくして、東洋医学を学んだとは言
えない、行じているとは言えない、そのように私は考えます。

そしてその人間観をさらなる深みへ向けて探求する技術として、体表観察を中心
とした四診に基づいた鍼灸術があるとも考えています。いわば、臨床鍼灸を哲学
の次元にまで高めていくということが、これからの鍼灸師の目的となるべきだろ
うと考えているわけです。

木村敏氏の重い言葉は、このような目標のための基礎となるものです。

症状が出るということと、生命力との関係については、以前掲載した私の論文
「生命の医学に向けて」http://1gen.jp/1GEN/RONBUN/Life-medicine.HTMの63ペ
ージ「好循環悪循環と敏感期鈍感期」に図を用いて解説されています。大切なこ
とは、症状は氷山の一角にすぎないものであり、その症状を支えている生命の深
く大きな動きこそが大切であるということです。


伴 尚志
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