■ 暝想―簡易座禅の薦め
今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?
今というのはまったけき存在なのですけれども、
今をつかみとることは人にできることではありません。
こことはどこなのでしょうか。
時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。
けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、
まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。
今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。
これは驚くべきことなのですが、事実です。
妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。
いつも相対的な自己しか見ることができません。
「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。
どうしてなのでしょう。そういう性(サガ)なのでしょうか・・・
このような「浮遊し妄想する自己意識」を手放して
今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。
この「今ここ」に落ちていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。
「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。
その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。
人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。
自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。
今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。
これが、
切診の練習でも、
弁証論治を作るときでも、
治療のときでも、
養生のときにも、
もっとも大切なこととなります。
その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。
止観 ― 妄想することを止めること ―
そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、
この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、
ご希望があれば私におっしゃってください。
差し上げます。
伴 尚志
今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?
今というのはまったけき存在なのですけれども、
今をつかみとることは人にできることではありません。
こことはどこなのでしょうか。
時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。
けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、
まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。
今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。
これは驚くべきことなのですが、事実です。
妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。
いつも相対的な自己しか見ることができません。
「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。
どうしてなのでしょう。そういう性(サガ)なのでしょうか・・・
このような「浮遊し妄想する自己意識」を手放して
今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。
この「今ここ」に落ちていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。
「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。
その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。
人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。
自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。
今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。
これが、
切診の練習でも、
弁証論治を作るときでも、
治療のときでも、
養生のときにも、
もっとも大切なこととなります。
その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。
止観 ― 妄想することを止めること ―
そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、
この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。
暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、
ご希望があれば私におっしゃってください。
差し上げます。
伴 尚志
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