■「一」の視点に立つ
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。
ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
伴 尚志
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。
ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
伴 尚志
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