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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

> 「いのちに触れる」とはどういうことなのか?、
> ヘレンケラーが水を理解したときの感動は「いのち」に触れたから、
> というお話がありました。

ヘレンケラーのあの、「Water」という言葉を理解した時の話は、思い出すだけ
で感動と共感を覚えます。なぜなんだろう?とても感動しちゃうんですよね、
私。

ヘレンケラーは、その言葉が水を指している以前から、水を感じることはできて
いたんだろうと思います。そしてその、鮮烈な流れの心地よさを、自分だけのも
のとして感じ取ることができていた。自分の世界の中で、その感動とともに生き
てはいた。

ところが、サリバン先生の努力のおかげで、生命世界のその部分に名前がついて
いて、そこが共有されている(かもしれない)ということに気が付く。自分だけ
の世界ではない。世界が共感の下に開かれている(のかもしれない)ことに、心
が触れる。

言葉の世界の無限の偉大さに、ヘレンケラー(に共感している私)は感動するわ
けです。

生命世界は実はすべての人々の足下に今、開かれています。それに触れようとし
ないのは、触れようとしてもできなくなっているのは、言葉の世界を中心に考え
が構成されている、「自己という牢獄」に住んでいるためです。

ということは、ヘレンケラーは、生命世界に触れたのではなく、言葉の入り口に
立って、そこに感動したということなのでしょうか。そうですね。言葉の牢獄へ
ようこそ、文明世界へようこそという「感動」でもあるのでしょう。

言葉はある意味、光り輝く曼荼羅の世界です。生命曼荼羅は、言葉というシンボ
ルの、光り輝く積み重ねで作られている(ように見えます)。その世界がまるで
生命を超えて存在しているかのように思えるため、ネオン輝く歓楽地に(見える
地獄に)あこがれ、人々はその世界にはまっていきます。いわゆる学者、いわゆ
る学問という世界にはまっていくことがそれになります。知識人が蓄積してい
る、世界の区別判別、世界を名付けて理解した気持ちになっていること。それこ
そが言葉の氾濫によるものであり、湯水のごとく浪費される言葉の泥濘です。


> ちなみに赤ちゃんから3歳頃までは「いのちに触れて」いるそうです。
> ということは、その頃の感覚を思い出すことができれば、
> 「いのちに触れる」ことができるのかなぁと考えていました。

ヘレンケラーも赤ちゃんも、いのちの中に生き、どっぷりと生かされているわけ
です。実は私たちもそうなんです。けれどもそれを忘れてしまいます。その理由
は、自己という壁にしっかり囲われた、自己という牢獄の中に私たちが住んでい
るためです。このこを仏教用語では「火宅」(かたく)と呼ばれています。

常識という牢獄です。自分自身のあたりまえを点検することなしには、この牢獄
から抜け出すことはできません。

言語過剰な欧米の文明はまさにこの「火宅」の中での喧噪です。

病名を決め、その病名を消すために築かれている現代医学の行き詰まりは、実は
ここにあります。すべての苦しみからの解放としての死を前提としない医学とい
うのは、非生物的なものです。生命世界に寄り添っているものでは、実はありま
せん。

ナラティブテクノロジーと名付けられている、脱科学的な新たな人間理解の手法
なども、言葉を手掛かりとしたものである限り、新たな誤解の積み重ねになるで
しょう。

鍼灸師であればその次の世界、切診を基軸とした四診を手掛かりとした人間理解
の方法が、築かれるべきであると考えています。


> ヘレンケラー、子どもの頃に漫画の伝記で読んだことがあるかな、
> くらいしか知らないです。もし、ヘレンケラーについてお勧めの本が
> あれば教えてください>伴先生

本に何かの理解が書かれているとは私が思っていないことは、上記の文章を読ん
でいただければ理解されると思います。本に書かれていることは、ヘレンケラー
に対する誤解でしかないだろうということも、理解されるのではないでしょう
か。人は、自分が理解できる範囲内のことしか、理解できないものですから。そ
の範囲内で書かれている書物など、私にとってはヘレンケラー(に感動した私)
に対する侮辱でしかないと私は考えています。

伴 尚志
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