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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント4

■第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による説明ではなく、
感応作用に基づいている、と説明される。『周易』という儒教の経典に対する唐
時代、七世紀の学者・孔穎達(くようだつ)の注釈に、感応の概念が明確に説明
されている。「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気類に従っ
ている」「感とは動くということ、応とは、その報いである。すべて先になるの
が感で、後のものは応である」と。

〔伴注:
因果律と感応作用の違いがわかりにくいかと思います。孔穎達の「感とは動くと
いうこと、応とは、その報いである。すべて先になるのが感で、後のものは応で
ある」という解説はまさに仏教的な因果の世界を想起させます。

孔穎達のもう一つの言「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気
類に従っている」というのは、リアリティーが乏しいものです。スウェーデンに
生まれた天才的な霊能者であるスウェルデンボルグによるとこれは、死後の世界
の説明です。生前の世界はこれが雑然と影響し合っているだけであり、感応にも
濃淡があるということが理解できます。感応の濃淡というところに、生きている
ことのおもしろさ、ダイナミックさがあるわけです。

《易》は占筮の書ですから、鬼神と「感応する」ということを前提として言葉が
展開されています。論理で考え尽くすのではなく、感応してその響きを見いだ
す、そのような読み方をするわけです。敏感によく感応するところは美しいと感
じ、鈍感で感応が弱いところは醜いと感じます。いわゆる因果律にはこの美醜の
感覚はなく、論理的な思考がそれを超えて存在していることとなります。私は、
因果律よりも美醜の感覚の方が美しいと感じます。そこにおける感応は、拍手の
音のようなものです。左手で叩くのか右手で叩くのかと、分けることはできませ
ん。一瞬で鳴り響き、感取されるものです。美醜の感覚というのはそういうもの
です。理屈で考えるようなものではありません。私は言葉や論理以前のこの感応
と、それに基づいた美醜を尊重します。

《易》の中孚〔注:(ちゅうふ)内なる誠〕には有名な言葉が著されています。
『鳴鶴(めいかく)陰にあり、〔注:日陰で鶴が鳴き〕その子これに和す。
〔注:その子がこれに和して鳴く声がする。〕我れに好爵〔注:よしみを結ぶ
杯:美しい心:天命にかなった目的〕あり。吾れ爾(なんじ)とこれをともにせ
ん。』なんという美しい言葉、麗しい情景でしょうか。

また《易》の下経の冒頭には、咸〔注:感:無心の感応であるため咸という文字
を用います〕の卦が置かれています。これは、上経が万物の創始者である天地
(乾坤)から始まったのに対して、下経を人倫の発端である感応から始めたもの
であると言われています。感応というのは時間経過や理屈が入り込む以前の、響
きを感じ取る心の動きのことを表現しているものです。

どうすればこの感応の世界に十分に浸ることができるのでしょうか、感じ取るこ
とができるようになるのでしょうか。このあたりの心の位置について『私心が全
くなくなれば、ひろびろとした万物感通の境地が開ける。』と《易・繋辞伝》で
は述べられています。

『易』は、鬼神との大いなる感応の書です。この書物を言葉の解釈を通じた理屈
で考えていくならば、『易』の外殻にも触れることはできません。どのように解
釈本を読もうとも、何も理解できずに終わってしまうことでしょう。言葉を超え
た感応の世界へと、足を踏み出さなければ、読んでも読めず、見てもまったく見
ていない状態のまま人生の時間を徒労することとなります。

さて、あなたはここで自らに問う必要があります。ひろびろとした万物感通の境
地が開けることを碍(さまた)げる「私心」とは、はたしてなんなのでしょう
か。



伴 尚志
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