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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

たにぐち書店から『医学切要指南』の全訳が出版されました。『医学三蔵弁解』と同時発売なんですね。力が入ってます。索引もつけたかったのですが、それは今後の課題ということになりました。岡本一抱の紹介なども含めて以下にあとがきとして書いたものをアップしておきます。

訳者 あとがき


岡本一抱(一六五四年~一七一六年)は、通称為竹、一得斎と号していました。もとの姓は杉森といい、承応三年(一六五四年)越前国福井において杉森信義の三男として生まれています。生年、出生地には異説が多く、山口県で生まれたという説もあります。一歳上の実兄には江戸文学を代表する近松門左衛門がいます。一抱は十六歳の頃、織田長頼の侍医である平井自安の養子になり、平井要安と称しました。十八歳で味岡三伯に入門し、医学を学んでいます。三伯の師は饗庭東庵ですから、一抱の学系は、曲直瀬道三―曲直瀬玄朔―饗庭東庵―味岡三伯とつながることとなります。

三十二歳の頃、師である味岡三伯から破門され、三十五歳の頃には養家から去ったのか岡本姓を名乗るようになり、まもなく法橋に叙せられています。没年は享保元年(一七一六年)六十二歳の時で、京都本圀寺に葬られました。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓石が存在していたようですが、戦後になって整理されたのか、不明になっています。子孫は京都にご健在ということです。


岡本一抱の著作のうち、その年代について訳者が確認できたものは以下の通りです。

臓腑経絡詳解 三十五歳 一六八九年序
十四経諺解 一六九三年刊行
病因指南 一六九五年刊行
格致余論諺解 一六九六年刊行
奇経八脉詳解 一六九六年刊行
一抱渉筆 一六九八年書写
和語本草綱目 一六九八年刊行
鍼灸抜萃大成 一六九八年刊行
医学至要抄 一六九九年刊行
医学三蔵弁解 一七〇〇年刊行
医方大成論和語鈔 一七〇二年刊行
方意弁義 一七〇三年序
阿是要穴 一七〇三年刊行
素問入式運気論奥諺解 一七〇四年刊行
医学入門諺解 一七〇九年刊行
医学講談 一七一三年刊行
医学切要指南 一七一四年刊行
和語医療指南 一七一四年刊行
経穴密語集(奇経八脉詳解を改題) 一七一五年刊行

◇岡本一抱子 六十二歳他界 一七一六年 享保元年
◇近松門左衛門 七十一歳他界 一七二四年(一歳上の兄)

日用医療指南大成 一七二六年刊行
医学正伝惑問諺解 一七二八年刊行
溯集倭語鈔 一七二八年刊行
黄帝内経素問諺解 一七四四年刊行
校正引経訣 一八〇八年書写


これだけみても非常に大量の著作が岡本一抱子にはあります。近世医人中最大のブックメーカーと言われるゆえんでしょう。基本的に古医書の注釈を中心として彼の医学研究は進められており、古医書の本義を食い貫いてその本質を明らかにせんとする気迫に満ちた多くの諺解書があります。代表的な著書として《和語本草綱目》《方意弁義》《医方大成論諺解》《医学三蔵弁解》《医学切要指南》などがあげられています。

このうち《医学三蔵弁解》は岡本一抱子が46歳の時までに書かれたもので、相伝されるべき秘伝の書として用意されました。けれども口授される相伝の書としてしまうと失われる可能性があるため、出版することにしたと自ら述べています。

《医学三蔵弁解》は、人身における根本を整理した上で、処方理解を通じて治療に応用していくための道筋を示しています。生命という混沌を五行の観点から三焦の観点へ、三才の観点から気一元の観点へと統括するという形で、《医学三蔵弁解》全体を統一的に既述することに成功しています。さすがに秘伝として懐中にしまうべき完成度の高さです。


これに比して《医学三蔵弁解》の十三年後(他界二年前)に上梓されている《医学切要指南》は、全体が統合的に書かれていない点で論文集のような印象を受けます。けれどもそれは、《医学三蔵弁解》という相伝の書を書き上げた後さらに研鑽を積んだ、岡本一抱子の飽くことなき求道の力を看取させるものとなっています。

本書の〈三焦心包有名無形論〉において、張景岳や馬蒔などそれまでの諸家の論を踏まえた上で再論し『心包も三焦も同じようなものということになるわけなのですけれども、陽気が出てくる位置が異なります。ダン中心の宮から出て臓腑全身に通じている陽気の徳用を心主とし、臍下腎間から出て上下全身を通行する陽気の働きを三焦と呼んでいるのです。』と、その本義を解き明かしています。これはまさに時代を越えた論争にとうとう終止符が打たれたものであると言ってよいでしょう。これは現代中医学の論にもみることのできない確かな解釈となっています。

また『水穀によって生じた気は後天の元気であり、腎間の動気の別使である三焦の気は先天の元気です。先天と後天とが一つになって全身を養っているわけです。』と述べた上で『医道は三焦を眼目とします。病因を察し治療を行うに際してすべて、三焦ひとつを相手にしていることです。越人は深く医道の奥義に達して心主 三焦が無形であるということを明らかにしました。後学を導き医源を指南する恵みの実に大きなこと、これを過ぎるものがないほどです。』と医道の本義について論じて、《医学三蔵弁解》ではまだ語り尽くされていなかった三焦論の奥義をここに明らかにしています。岡本一抱子はその晩年、このもっとも単純な場所、人身における秘伝そのものの場所に到達していたわけです。

にもかかわらず『私は《素》《難》を心に刻んで五十余年撰述し、彫刻させてきた書物は百二十余巻にのぼります。撰してまだ刻んではない書物も若干ありますが、まだ医道の奥旨には達していません。』と述べる岡本一抱子の謙虚さはなんでしょうか。このような言葉に触れると私は自身の怠惰に震えざるを得ません。



現代に岡本一抱の魂が甦らんことを祈りつつ


  平成二十一年 十月   訳者  伴 尚志 識
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