腹診術の起源
西洋医学の腹診は内臓の臓器そのものの診断にその重点が置かれていますが、東洋医学の腹診は五臟六腑の機能が充分に発揮されいてるかどうかということを判断するために用いられます。そのため、西洋医学の腹診より繊細で応用範囲が広くなっています。
広く知られているように腹診という言葉は日本で生まれ日本で発展しました。そのもともとの示唆、起源は『難経』および『傷寒論』にあります。張仲景は『傷寒論』を著述するにあたって『難経』を参考にしていますので、『傷寒論』におけるさまざまな腹証に対する記載は、『難経』の腹診を検証する中から生まれてきたと見るのが妥当でしょう。『難経』には腹診法の概要が大まかに示されており、『傷寒論』には実際の処方と腹壁の状態とが示されています。張仲景が必死で体表観察をしていたことがわかります。
『傷寒論』の中には、心下痞、心下満、胸脇苦満など腹診証候を提示することで選薬の参考としている記載が多数あります。けれども、腹を医師に見せるのが時代を下るにつれて憚(はばか)られるようになったためか、大陸においてはその後大きな発展はありません。
それに対して日本では戦国の世の末期、室町時代に按腹の技術などをベースとして起こり、江戸時代にいたって独特の発展を遂げることになります。手技治療の部位としての腹ということから、診断部位としての腹への認識が高まり、ついには「腹診」という独特の分野を築くに至ったわけです。
日本の医学は仏教が伝来した奈良時代から、僧医〔注:禅宗の僧侶〕が中心となって留学し伝えられました。鎌倉時代になると禅宗が武士の間で盛んになります。勢力を得た禅宗の僧侶が宋に留学し、その当時の医学の精華を日本国内に輸入して、名医となっています。この流れは室町時代に入ってさらに深まり、禅宗を中心とした僧侶が医学を含めた学問全般の主たる担い手となっていきました。
このような医学の伝承の中で、按腹および腹部打鍼術は生まれました。おそらく禅の修行を通じて発達したものでしょう。それは、臍下丹田に気を収めることによって、心身の重心が定まり止観を修し、諸病を癒すことができるという修行の知恵に基づいています〔注:『天台小止観』治病患〕。
自らの死を見極めつつ生きた戦国の世にあって、武士は禅をその修行法として受容していきました。ここに武士道と禅と腹診との結びつきが生まれることとなります。その結果、邪を祓う正義の剣としての鍼と槌が工夫されることとなったのでしょう。
臍下丹田の一点を定めることを重視する点で、当時の腹診法がその根本を『難経』の腎間の動気の記載に求めたことは、理において当然の帰結です。そしてこの点が非常に重視されたことが、その後の日本医学に独特の光彩を放つこととなります。いわば、中心を持つ気一元の人間観が基本として確立され、それが医学を構築する基礎概念となったわけです。
日本医学の再興の祖と呼ばれている曲直瀬道三も禅僧でした。この曲直瀬道三を継いだ曲直瀬玄朔が最も古い「傷寒論系」の腹診図である五十腹図・百腹図を最初に著している〔注:大塚敬節著作集第8巻304頁〕ということも、偶然ではないわけです。禅を中心とした仏教の人間観が、日本医学に大きな影響を与えているわけですね。ただしこの腹診図は秘せられて伝承されたため、世の中に出ることはありませんでした。
世の中に出た腹診法の始祖は松岡意斎ということになりそうです。森中虚はこれを「病人の腹を観、腎間の在所を切かに識って死生吉凶をさとる、これを腹診と言ふ」〔注:『意中玄奥』〕と述べています。
大塚敬節氏は『腹診考』の中で難経系腹診と傷寒論系腹診とがあると明確にされています。が、『傷寒論』そのものが『難経』に基づいて実地に展開されていることを考える時、より原理原則に立ち返って気の偏在を眺めることをその診察の中心におく鍼灸系の治療家たちが『難経』流の腹診を本としたのは当然のことと言えるのではないでしょうか。『傷寒論』を書いた張仲景も同じように気の偏在を観察しながら、より湯液を使いやすいように腹診結果を記述していったと私は考えています。
ここにおいて、湯液を使う際の便法としての腹診法と、生命の動きそのものを記載しようとする腹診法とが並立することとなるわけです。もし張仲景の道を真に求めるのであれば、弁証論治をして気の偏在を見極める中から『傷寒論』における腹診結果を批判的に読み直すという作業が必要となることでしょう。
西洋医学の腹診は内臓の臓器そのものの診断にその重点が置かれていますが、東洋医学の腹診は五臟六腑の機能が充分に発揮されいてるかどうかということを判断するために用いられます。そのため、西洋医学の腹診より繊細で応用範囲が広くなっています。
広く知られているように腹診という言葉は日本で生まれ日本で発展しました。そのもともとの示唆、起源は『難経』および『傷寒論』にあります。張仲景は『傷寒論』を著述するにあたって『難経』を参考にしていますので、『傷寒論』におけるさまざまな腹証に対する記載は、『難経』の腹診を検証する中から生まれてきたと見るのが妥当でしょう。『難経』には腹診法の概要が大まかに示されており、『傷寒論』には実際の処方と腹壁の状態とが示されています。張仲景が必死で体表観察をしていたことがわかります。
『傷寒論』の中には、心下痞、心下満、胸脇苦満など腹診証候を提示することで選薬の参考としている記載が多数あります。けれども、腹を医師に見せるのが時代を下るにつれて憚(はばか)られるようになったためか、大陸においてはその後大きな発展はありません。
それに対して日本では戦国の世の末期、室町時代に按腹の技術などをベースとして起こり、江戸時代にいたって独特の発展を遂げることになります。手技治療の部位としての腹ということから、診断部位としての腹への認識が高まり、ついには「腹診」という独特の分野を築くに至ったわけです。
日本の医学は仏教が伝来した奈良時代から、僧医〔注:禅宗の僧侶〕が中心となって留学し伝えられました。鎌倉時代になると禅宗が武士の間で盛んになります。勢力を得た禅宗の僧侶が宋に留学し、その当時の医学の精華を日本国内に輸入して、名医となっています。この流れは室町時代に入ってさらに深まり、禅宗を中心とした僧侶が医学を含めた学問全般の主たる担い手となっていきました。
このような医学の伝承の中で、按腹および腹部打鍼術は生まれました。おそらく禅の修行を通じて発達したものでしょう。それは、臍下丹田に気を収めることによって、心身の重心が定まり止観を修し、諸病を癒すことができるという修行の知恵に基づいています〔注:『天台小止観』治病患〕。
自らの死を見極めつつ生きた戦国の世にあって、武士は禅をその修行法として受容していきました。ここに武士道と禅と腹診との結びつきが生まれることとなります。その結果、邪を祓う正義の剣としての鍼と槌が工夫されることとなったのでしょう。
臍下丹田の一点を定めることを重視する点で、当時の腹診法がその根本を『難経』の腎間の動気の記載に求めたことは、理において当然の帰結です。そしてこの点が非常に重視されたことが、その後の日本医学に独特の光彩を放つこととなります。いわば、中心を持つ気一元の人間観が基本として確立され、それが医学を構築する基礎概念となったわけです。
日本医学の再興の祖と呼ばれている曲直瀬道三も禅僧でした。この曲直瀬道三を継いだ曲直瀬玄朔が最も古い「傷寒論系」の腹診図である五十腹図・百腹図を最初に著している〔注:大塚敬節著作集第8巻304頁〕ということも、偶然ではないわけです。禅を中心とした仏教の人間観が、日本医学に大きな影響を与えているわけですね。ただしこの腹診図は秘せられて伝承されたため、世の中に出ることはありませんでした。
世の中に出た腹診法の始祖は松岡意斎ということになりそうです。森中虚はこれを「病人の腹を観、腎間の在所を切かに識って死生吉凶をさとる、これを腹診と言ふ」〔注:『意中玄奥』〕と述べています。
大塚敬節氏は『腹診考』の中で難経系腹診と傷寒論系腹診とがあると明確にされています。が、『傷寒論』そのものが『難経』に基づいて実地に展開されていることを考える時、より原理原則に立ち返って気の偏在を眺めることをその診察の中心におく鍼灸系の治療家たちが『難経』流の腹診を本としたのは当然のことと言えるのではないでしょうか。『傷寒論』を書いた張仲景も同じように気の偏在を観察しながら、より湯液を使いやすいように腹診結果を記述していったと私は考えています。
ここにおいて、湯液を使う際の便法としての腹診法と、生命の動きそのものを記載しようとする腹診法とが並立することとなるわけです。もし張仲景の道を真に求めるのであれば、弁証論治をして気の偏在を見極める中から『傷寒論』における腹診結果を批判的に読み直すという作業が必要となることでしょう。
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