精神病理学の泰斗、木村敏氏は、その『臨床哲学の知』の中で以下のように述べています。
「
症状と病気のこの関係は、精神科でも同じです。患者さんは症状を出すことで一種の自己治癒のようなことをしているところがありますし、医師はそこを見極めなければならないわけですけれども、いまは、精神病になるのは脳が生化学的な変化を起こして例えばドーパミンなどという物質を出し過ぎるからであって、それが幻覚や妄想を引き起こすんだといった考えにとらわれている。精神医学も症状を消すことしか考えない。脳機能の研究自体は大切なのですが、それがもっと深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解明を妨げているとしたら、これは大問題でしょう。
家族や周囲の社会に迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけているわけではない。だから、症状を除去することが周囲からの期待に応えることになる。症状が消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけを見るというのと、患者自身のことより周囲の社会の安全を考えるというのとは、実は同じことの両面なんですね。
わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取ったら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られるということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われるということと同じですから、あとは自殺するしか仕方がなかったということなのだろうと思います。まだ若いころの出来事ですが、そのときにこれはいけないと思いました。
症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以来、いまもずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り立たないし、妄想や幻想がひどいと患者さんの社会人としての評価にかかわりますから、薬はそれなりにやはり使いますけれども、それで症状をきれいに取ってしまおうなどということはまったく考えません。風邪と同じで、症状は出す必要がなくなれば自然になくなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力があることの証拠なのですね。
しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というものは、まったくそうではなくなってしまいました。症状をとること以外は何も考えなくなってしまっています。いまの状態が続けば、精神病理学という学問は、日本の医学界からいずれ消滅するかもしれませんし、ことによると実質的にもう消滅しているのかもしれない。病理学というのは、これは身体の病理学でも同じだと思いますが、病気そのものの成り立ちを研究する学問であって、症状のことは、病気の本質と関係があるかぎりでしか問題にすべきではないのです。脳の変化を除去して妄想をとればそこでお終い、精神医学が行うのはそこまでということになっていけば、精神病理学なんて学問は必要がなくなる一方でしょう。
」〈『臨床哲学の知―臨床としての精神病理学のために』洋泉社刊 2008年 53p〉
この言葉は、エビデンスを安易に語る傾向がある鍼灸界においても、噛みしめるべき言葉でしょう。
古典において提出されているものは、単なる治療技術なのではなく人間観である。その人間観を読み解くことなくして東洋医学を学んだとは言えない。行じているとは言えない。そのように私は考えています。
そしてその人間観をさらなる深みへ向けて探求する技術として鍼灸術があるとも考えています。
いわば、臨床鍼灸を哲学の次元にまで高めていくということが、これからの鍼灸師の目的となるべきだろうと思うわけです。
このような目標のための枕として、木村敏氏の重い言葉をまず噛みしめたいと思います。
rinnsyou
「
症状と病気のこの関係は、精神科でも同じです。患者さんは症状を出すことで一種の自己治癒のようなことをしているところがありますし、医師はそこを見極めなければならないわけですけれども、いまは、精神病になるのは脳が生化学的な変化を起こして例えばドーパミンなどという物質を出し過ぎるからであって、それが幻覚や妄想を引き起こすんだといった考えにとらわれている。精神医学も症状を消すことしか考えない。脳機能の研究自体は大切なのですが、それがもっと深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解明を妨げているとしたら、これは大問題でしょう。
家族や周囲の社会に迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけているわけではない。だから、症状を除去することが周囲からの期待に応えることになる。症状が消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけを見るというのと、患者自身のことより周囲の社会の安全を考えるというのとは、実は同じことの両面なんですね。
わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取ったら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られるということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われるということと同じですから、あとは自殺するしか仕方がなかったということなのだろうと思います。まだ若いころの出来事ですが、そのときにこれはいけないと思いました。
症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以来、いまもずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り立たないし、妄想や幻想がひどいと患者さんの社会人としての評価にかかわりますから、薬はそれなりにやはり使いますけれども、それで症状をきれいに取ってしまおうなどということはまったく考えません。風邪と同じで、症状は出す必要がなくなれば自然になくなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力があることの証拠なのですね。
しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というものは、まったくそうではなくなってしまいました。症状をとること以外は何も考えなくなってしまっています。いまの状態が続けば、精神病理学という学問は、日本の医学界からいずれ消滅するかもしれませんし、ことによると実質的にもう消滅しているのかもしれない。病理学というのは、これは身体の病理学でも同じだと思いますが、病気そのものの成り立ちを研究する学問であって、症状のことは、病気の本質と関係があるかぎりでしか問題にすべきではないのです。脳の変化を除去して妄想をとればそこでお終い、精神医学が行うのはそこまでということになっていけば、精神病理学なんて学問は必要がなくなる一方でしょう。
」〈『臨床哲学の知―臨床としての精神病理学のために』洋泉社刊 2008年 53p〉
この言葉は、エビデンスを安易に語る傾向がある鍼灸界においても、噛みしめるべき言葉でしょう。
古典において提出されているものは、単なる治療技術なのではなく人間観である。その人間観を読み解くことなくして東洋医学を学んだとは言えない。行じているとは言えない。そのように私は考えています。
そしてその人間観をさらなる深みへ向けて探求する技術として鍼灸術があるとも考えています。
いわば、臨床鍼灸を哲学の次元にまで高めていくということが、これからの鍼灸師の目的となるべきだろうと思うわけです。
このような目標のための枕として、木村敏氏の重い言葉をまず噛みしめたいと思います。
rinnsyou
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