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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■『蜘蛛の糸』その後:伴 尚志説


「芥川龍之介の著した『蜘蛛の糸』をご存知の方はたくさんおられると思いま
す。そしてそこから教訓を引き出そうとする、倫理的な方々もたくさんおられる
ようです。私も私の直感を通じて『蜘蛛の糸』その後談の屋上屋を重ねようと思
います。楽しんでいただけると嬉しいです。」


カンダタが蜘蛛の糸をお釈迦様に切られて落ちていった、その底は地獄だった。

けれどその同じ風景がお釈迦様にとっては、光と影が織りなす、色鮮やかな生命
曼陀羅であった。

カンダタはお釈迦様に蜘蛛の糸を切られて奈落の底に落ちていく中で、一瞬のう
ちに深い歓喜に包まれた。「あぁ、俺はもう救われる必要なんてないんだ!」い
つも何かにとりつかれたように突き動かされて行動していたカンダタ。大犯罪者
であるカンダタは、そのままの姿で―何ということだろうか!―救われてしまった
のであった。なんと表現することもできないような歓喜!が、カンダタをとらえ
て放さなかった。

「救われるというのはこういうことだったのか!」カンダタは地獄の底に落ちて
いく長く暗いいトンネルを通り抜けるような、無力な旅の中ではっきりと気付い
た。

「なんという喜びだろう!」救われる必要などなく、求める必要などなく、ただ
ありのままの愚かな自分を受け入れたカンダタにとって、もう恐いものなどなく
なっていた。

「救いや悟りなんてどうでもいい!俺こそがありてあるものそのものだったんじ
ゃないか!」カンダタは気づいた。自分が生命そのものであったということに。
生命の本体こそが自分自身であったということに。
自分自身以外に誰もこの生命の本体を知るものはいないということに。
まるで雷に打たれたようだった。家のドアを開けたらそこにダンプカーが突っ込
んできたような驚きだった。

「道徳なんてものはない、不道徳なんてこともない。あるのは在るという事実だ
けだったんだ」「ありてあるもの。存在の王。それが俺だ。」カンダタは地獄に
堕ちていきながら火の玉のようになっていく自分自身を感じ、そう思った。

「俺が傷つけたのは俺自身だった。俺が殺したのは俺自身だった。俺が焼いた家
は俺自身の家だった。俺が渇望したのは俺自身だったんだ!」カンダタはすべて
を悟った。

「地獄は俺自身の心だったんだ!なんてことだ!俺自身が地獄を作っていたん
だ!そしてそこに住んで俺は傷つき飢え殺し盗んできた。俺自身から!人を妬ん
で!」カンダタはいつの間にか号泣していた。自分の愚かさにあきれかえった。
そして以前の自分が憐れに思えた。

「なんてちっぽけな世界に住んでいたんだろう。心の汚れを洗う方法も知らず
に・・・」光の玉となってカンダタは地獄の底に落ちていった。

ふと気がつくと、カンダタは地獄の底で目が覚めた。いや、そこは地獄の底のは
ずだったというべきか。広い野原の丘の上でカンダタは目が覚めたのだ。たしか
にあの奈落に落ちていく感覚はもうすでになく、たしかな地面が広がっている。
雨上がりの後のような草の香りが世界を満たしている。すばらしい太陽が白い雲
の漂う空に輝いている。ここは地獄の底のはず、だった。

「なんて美しい世界なんだろう」カンダタは胸一杯に空気を吸い込んで思わず叫
んだ。するとまるでハイジのような少女が暖かいミルクをもってやってきた。彼
女は怖れを知らぬ愛らしい眼差しをカンダタにまっすぐ向けた。

「大丈夫?大きな音がしたからお星様が落ちてきたのかと思っちゃった!」そし
てさらにカンダタの眼をのぞき込んで言った。「どうぞ」

手に持っていたミルクを差し出した。カンダタはその優しさに震えて泣いた。
それは大盗族カンダタの「今の姿」だったのだ。

少女の姿でカンダタは、今日もお釈迦様が蜘蛛の糸を切られる慈悲の裁断を待ち
続けているという。

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なにかの手違いで消えたのかもしれません。
この間の書き込みを読みたい方は、以下のアドレスに掲載されていますので、そ
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                 伴 尚志


■『蜘蛛の糸』芥川龍之介著



ある日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。はるか下には地獄が
ああり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。

 犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。し
かしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思い
やり、踏み殺さずに助けてやったのだ。

 そのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地
獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。

 血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れ
てきた。これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸
命に上へ上へとのぼった。

 地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀
多は糸の途中にぶらさがって休憩していた。しかし下を見ると、まっ暗な血の池
から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって
近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考え
た犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下り
ろ」と大声で叫んだ。

 すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人
たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていった。

 この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち
去った。 』
※これは、ダヴィンチWEBからの引用です。
(『トップ連載1分間名作あらすじ【1分間名作あらすじ】芥川龍之介『蜘蛛の糸』
――地獄から抜け出すチャンスをもらった男の運命は?【1分間名作あらすじ】芥
川龍之介『蜘蛛の糸』――地獄から抜け出すチャンスをもらった男の運命は?文
芸・カルチャー 更新日:2023/2/28』 https://ddnavi.com/serial/465032/a/)

蜘蛛の糸の原文も、無料で入手できるようですので、是非読んでみてください。

課題は、この蜘蛛の糸を切られたあとのカンダタの心理状況の記述です。どんな
気持ちをカンダタは抱いたのだろうか。自分の心に照らして考えて、書いてみて
ください。いわく、『蜘蛛の糸―その後』です。

私も考えてありますので、それは五月八日頃に発表します。

伴 尚志
般若心経の話が出たので、私が現代語訳した般若心経を紹介しておきます。
後半には、般若波羅蜜多という呪文の解説があります。
この解説もまた、私による独自のものです。


■超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経


私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行(ぎょ
う)じた時、五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であるということを
はっきりと覚ることができ、すべての苦しみや災厄から解き放たれることができ
ました。

舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(くう)
でないものはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空であり、空
はすなわち色なのです。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)もまた同
じことです。

舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこともそ
もそもなく、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそもなく、増
えることも減ることもそもそもありません。ですから空の中に色はそもそもな
く、受想行識もそもそもないのです。眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜっ)心
(しん)意(い)もそもそもなく、色(しき)声(しょう)香(こう)味(み)
触(そく)法(ほう)もそもそもありません。見ることができる世界というもの
もそもそもなく、意識することができる世界というものもそもそもありません。

無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそもそ
もありません。また、老いや死というものもそもそもないのですから、老いや死
がなくなるということもそもそもありません。苦(く)集(しゅう)滅(めつ)
道(どう)〔注:仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境
地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそもそもないのです。

知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものもそも
そもありません。ですからこれによって得るところのものというものもそもそも
ないのです。

私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本
体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。心
にこだわりがなくなることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢想から
遠く離れることができます。ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断を超えたこ
の世界の実相そのもの:相対界ではない絶対界〕を自由に探求することができる
ようになります。

私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自身の
本体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさんみゃくさ
んぼーだいを得ること〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命そのものと一体と
なり、その光を帯びること〕ができます。

ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大いなる
明呪、ここに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦しみを取
り除くことができます。本当です、嘘ではありません。

それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。今
その呪を唱えます。

ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:
すべてを手放しなさい〕はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手
放して 存在そのものでいなさい〕



■般若波羅蜜多とは


時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であり、
人生の中でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般若波羅蜜
多を体験し、自覚し、意識し続けそれを表現するように努力すること。そこに人
生の本懐がある。

般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。生
を支えているエネルギーであり、生命の喜びそのものでもある。驚くべきことに
人々はそれが自分自身―自分の本体であることを知らない。

苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋である。けれどもそれは本
体ではない。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだか
ら。

般若波羅蜜多に気がつくということは、このことに気がつくということである。

一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし続け
ている。

気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。

深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に落ち
ていこう。

生のなんと栄光に満ちたものであることか!

生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!

お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土とし、
お互いのなかの神性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!


               伴 尚志
■古典を読む ― 般若心経を通じて


古典を読むというときには、実践の中で読むという姿勢が必要であって、言葉に
読まれてはいけません。

般若心経も、言葉で書かれているわけですけれども、言葉の解釈という方向で読
み進んでしまうと、どんどんその本意から離れてしまいます。本当にそこで言い
たいことはなんなのかというと、悟りをひらけ、自らの仏性に気づけ、そのため
には我執というゴミは捨てろということなのです。けれども、言葉を解釈してい
ると、「空」なんて分けわかんないし、漢字の羅列だし難しいということになっ
てしまいます。また賢い人であれば、般若心経を読むための辞書を作り上げてし
まうかもしれません。本当の般若心経の読み方、という題名で、一字一字の定義
を行ない、読み方や音韻を正確に定めた上で全体の意味を再構築していくという
ような。そのようにすると、学問的な評価の高い言葉の山を作り上げることもで
きるわけです。そして、そのために生涯をかけてしまう人もいます。

けれども般若心経の言葉を、禅の体験を通じてさらに集約した人もいます。ビー
トルズの言葉にもなった、「BE HERE NOW」「Now&Here」
「今ここ」というものがそれです。

東洋医学の古典も、このあたりの危うさを秘めているわけです。言葉を積み重ね
ても言葉のごみしかでない。体験を通じて言葉を理解する。臨床を通じて古典を
読んでいくということが大切なゆえんです。

伴 尚志

■違和感の大切さ

違和感は、自身の常識と他者の常識との間の違いによって起こります。

常識というものはそもそもその人生における自身の姿勢を決定付けているもの。
いわば、ものの見方考え方の基本です。

違和感を持つということは、自分自身の常識に不安を持つということです。ここ
において初めて、自身の概念の殻を打ち破って、他者との出会いが始まるわけで
す。自身の常識を疑うことによってはじめて、新たな世界がその視野に開かれる
こととなるわけです。

教育というのは、他者による洗脳です。これは言葉を換えると、新たな世界観を
提示し修得させるということになります。

現行の教育機関において、その多くが言葉を使って行われているため、教育の基
本として言葉が優位となりがちです。すなわち言葉を多く持っていることが教育
者の能力とされがちなわけです。

けれども臨床家になるための教育は、そういうものでは実はありません。事実を
観、それをどのように表現して他者の発した臨床の言葉とつなげて理解しなおし
ていくのか。このことを通じて、より深い正確な臨床へと自身の行為をつなげて
いこうとする。この過程を修得するということがポイントとなります。


                      伴 尚志
■言葉の指す向き

言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する諫言。

この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となり
ます。けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。

この二者の差は歴然としているものです。

道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発し
て、他者を支配しようとするところにあります。

己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用
いるところにあります。

己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。


■己と他者

さてそれでは、己と他者とを区別する行為は道を行ずる者の行為であろうか、と
いう疑問がここに生じます。

道を行ずるということは、自他一体の理の中に自らを投与するということでもあ
ります。そこに、あえて他者を設けて自らと分け、道を説かずにおくという行為
があり得るのでしょうか。

ここに実は、自らの分を定めるという意識が働くこととなります。

教育者として自らを定めるのであれば別ですが、道を行ずる者は先ず第一に己を
極めることが義務となります。そしてこの己を極めるという行為は一生継続する
ものです。その行為の合間に他者を入れる隙などは実はあり得ませんしあっては
ならないことだと私は思います。

ところが、学ぶものには語る義務が生ずる、後進を導く責任が生ずる。そこを道
を行ずるものとしてどのように乗り越えていくかということが、ここで問われて
いることです。

そしてそれは、他者として彼らに道を語るのではなく、自らの内なる者として、
同道の者として、己自身に対すると同じように道を究める努力をともにする。こ
のことを提示する。ということでしか有り得ないと私は考えています。


   伴 尚志
■古典を読むということ 弁証論治を作成するということ


一元流鍼灸術では文字で書かれている古典を読むことも大切にしています。けれ
どもその読み方には特徴があります。

以前触れましたが、究極の古典は目の前の患者さんの言葉化される以前の身体で
す。ですから、古典を読む時に念頭に置かなければならないもっとも大切なこと
は、目の前の患者さんの身体をどのように理解するのか、ということです。その
ための道具として、先人が同じように目の前の患者さんの身体を理解しようとし
て、ひもとき綴ってきた古典を使用するわけです。

そのような姿勢に立つとき大切なことが、古人の視点に立ち返るということで
す。この古人の視点とは何かというと、天人相応に基づく陰陽五行論です。気一
元の観点から把握しなおした陰陽と五行という視点を明らかにしない限り、古人
の位置に立ち、古人とともに古典を形作る共同作業を担うことはできません。

ですから一元流鍼灸術のテキストではまず、「気一元の観点に立った陰陽と五行
の把握方法」について語られています。


何かを解釈する際に基本的に大切なこととして、何を解釈しようとしているの
か、その対象を明らかにする必要があります。ことに「天人相応の関係として捉
えうる人間の範囲」とは何かということを規定しなければ、天人相応の関係を持
つとすることが何を意味しているのかということや、気一元のものとして捉える
ということが何を意味しているのかということを理解することはできません。

「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すその前に、その場の状
態―包括的な傾向を把握しておく発想が必要です。そのことを「器の状態」とし
てテキストでは述べています。生きている器の状態の動き方の傾向を把握しよう
とするわけです。その変化の仕方の傾向をどのように把握するのかという一段高
い観点がテキストでは述べられています。それが、器の敏感さ鈍感さ、器の大き
さ小ささ、器の脆さ緻密さという三方向からの観点です。テキストではこれを、
人の生成病老死に沿って解説しています。陰陽と五行で把握するものは実は、そ
のような傾向を持つ器の「中身」の状態について考えているわけです。

生命が日々動いている場の状態を説明する際、その場=器の傾向を把握しておく
ことは、生きている生命の弁証論治をしていくうえで欠かすことのできないこと
です。この基礎の上に立つことによって初めて弁証論治を考えるという行為が成
立するということを、一元流鍼灸術では明確にしています。


「場」の中身を陰陽の観点から五行の観点から把握し治すという行為はこの基礎
の上に成立します。それは現在の気の濃淡の傾向を静的に分析するといった傾向
を持ちます。その中でのバランスの崩れを時間の流れという動きの中から捉えて
いくわけです。


一元流鍼灸術で現在着々と積み重ねられている、このような基礎に立った弁証論
治は、現在の目の前にある古典である患者さんの身体をいかに理解するのか、理
解したかということを明らかにしているものです。積み重ねられた古典の情報を
用いますけれども、実は今目の前にある患者さんを理解する、理解しようとする
その熱が言葉になっているにすぎないとも言えます。

ですから、古典が時代とともに発展し変化してきたように、弁証論治も現時点で
できあがった人間観や病理観を固定化し執着するものとしてはいけません。解釈
はいつも仮の姿です。より真実に向けて、より実際の状態に向けて、弁証論治は
深化し発展し続けなければならないものであると覚悟してかかるべきです。

このようにして初めて、次の時代に残すべき古典の原資を提供することができる
わけです。


ですから一元流鍼灸術で古典を読む時、この同じ熱で古典が書かれているとして
読んでいます。そのようにすると、文字に踊らされて綴られているにすぎない部
分や、論理的な整合性を求めてまとめられたにすぎない部分や、とりあえず資料
として収録されたにすぎない部分などが見えてきます。

古典を大切に思っていますので、その原資料を現代的な視点で解釈しなおしたり
改変したりはしません。より書き手の心の奥に潜む情熱に沿うように読み取って
いきます。読み取る際には私心をなくしてただ読みます。けれども、読み取った
ものに対しては厳しい批判の眼差しを向けます。読み取る際には私心をなくして
ただ読み取り、読み取ったものに対しては厳しい眼差しを向けるというこの姿勢
は、実は我々が弁証論治を作成する際に自分自身に向ける眼差しと同じです。

これはすなわち一元流鍼灸術で古典を読むということなのです。


                     伴 尚志

■古典を読み身体を読む心


鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめ、それを通じ
て、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実と
は何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽
す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』など
の書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の作業の基となって
いる実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する
人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解
できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へと持っていくことが
できるだろうかと探求していくわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代に
よって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣
に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として
言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれども
その書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作ると
いうことが、学校教育に求められることです。外野としての私は、その支援の一
つとして、中心概念をここ「一元流鍼灸術の門」に明確にしているわけです。そ
れが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法とし
ての陰陽と五行の把握方法であるわけです。


古典という地図には読み方があります。身体は時代や地域によって異なります。
現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要となります。現代の人間観、宇
宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることを徹底すること
によって、はじめて古典を綴った古人とつながることができます。そして、現代
には現代の古典が再び綴られていくこととなるでしょう。これこそが澤田健先生
の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、身体に向かう際の白紙の心とは同じ
心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本とな
ります。


                     伴 尚志

■古典を読むということ

古典を読むということは、自分の意見の歴史的な位置づけを得ることができま
す。これによって、自分の意見を学問のレベルに引き上げることができるわけで
す。

今、臨床の場という古典発祥の地に立つことによって、東洋医学の中核である臓
腑経絡学を磨き上げ書き換えていこうとすることが、東洋医学の先人たちへの一
元流鍼灸術による恩返しとなります。


■人間理解への情熱こそが古典の基本

東洋医学には数千年の積み重ねがあると言われています。数千年の積み重ねとい
っても、その間、同じ言葉が繰り返されてきたのであればそれはただ、数千年の
停滞でしかないということが理解されなければなりません。数千年前の思い付き
を現代においても踏襲し続けているとしたらそれは、いかなる宗教いかなる信仰
心でしょうか!そして、いかなる怠慢でしょうか!


とはいえ、東洋医学の基本的な古典はその成立当時にすでに深い臨床の積み重ね
がありました。生命へのどのようなアプローチがどのような生命状態の変化を及
ぼすというだけでなく、それらの変化を系統立てて纏め上げています。そこにあ
る、人間理解への激しい情熱と執拗さとをこそ、我々は学び取らなければなりま
せん!

そして、その同じ執拗な情熱のみが、古典を乗り越えさせ、より効果的な臨床を
築いていく原動力となるでしょう。一元流鍼灸術が目指すものは、古典に埋没す
ることではなく、古典を作り出す能力を獲得することです。言葉にされた古典を
読むことだけでなく、その言葉の先にある生命理解を身につけることです。


                  伴 尚志
■経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前が付いている件

 【体表観察こそが今生きている古典である身体を読み取るための武器である】

学校や素人は、この経穴がこの疾病に効果があるという言葉を信じて勉強を積ん
でいきます。けれども、実際に患者さんにあたると、経穴を見つけることができ
ません。それは経穴名が体表に書いてあるわけではないためです。あたりまえの
ことですが。このあたりのことを乗り越えようとして経穴を探す方法が工夫され
てきました。けれどもそれは体表を機械的に計測して当てはめるもので、経穴そ
のもの(沢田健先生のいわゆる生きて働いている経穴)を見出すための鍛錬では
ありません。そのため中医学などでは体表に触れて経穴を探すこともせず、頭の
中で作られた位置に基づいた場処に処置することとなっています。

会話を成立させるためあるいは情報を残すためにはその場処(体表の一点)を指
し示す名前が付いていなければならず、その名前が同じ場所を指していることを
前提として(特に近代は)経穴学が発展してきました。どの経穴はどのような疾
病に効果があるといういわゆる特効穴治療などもこの過程で研究され、その記録
が積み重ねられてきたものです。

けれどもこのての勉強を積み重ねているうちに忘れてしまうことがあります。そ
れは、体表を観察することによって初めて、経穴の一点を手に入れることができ
るという単純な事実です。「名前がつけられる以前からそこに存在していた経穴
表現を見出すこと」ここに古典を越えて事実そのものに立脚することのできる鍼
灸師の特徴があります。【体表観察こそが今生きている古典である身体を読み取る
ための武器である】ということ、この事実を認識することから一元流の学は始まっ
ています。


■質疑■

> 勉強会の実習で、いつもペンで印をつける経穴(陥凹・ゆるみ・
> 腫れなど)は、「生きて働いている経穴」ということなのでしょ
> うか?
>
> それはテキストにある「反応の出ている経穴」と同じものでしょ
> うか?


そうです。

> また、印をつけられない経穴は何なのでしょう?

微細な反応なので見えにくい経穴です。


> いま私の手元にある『経穴マップ』という本によれば、WHOの
> 国際標準で全身には361穴の経穴があるとのことであります。
> これは経穴の名前が361あるということで、誰でも常に361
> の経穴があるということではないわけでしょうか?

誰でも常に361の経穴があるということではありません。そのよ
うな標準化というのは無意味だということを言っています。

これはいわば、国家における町の数を数えるようなものです。体調
や状況生活習慣によって反応が出ている経穴の数も状況も変化しま
す。生命を取り扱うということはそのようなことです。国家におい
て町は生命の結節点ですが、時代によって地理によって状況によっ
て数も状況も大きく変化します。それと同じことです。

場を、面としてとらえる。その中の焦点を一点に定められる場合そ
れが経穴となり、そのあたりを指し示している経穴名を使用してそ
の位置を指示する。といった感じで経穴の探索を執り行います。

阿是穴は多くの場合経穴の正位置からの変動という発想で把えます。
そしてその変動には意味があるだろうと思います。足裏や手掌など
は古典で指示されている経穴名が少ないので、その位置が分かりや
すいように新しい名前をつけて呼ぶようにしています。

             伴 尚志
■名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が付いている件

書物になると、何穴は何に効くという書き方しかできません。そしてそれを読ん
だ人々は、なるほどツボっていうのはそんなに効くものなのか、と驚いてその何
穴がどこにあるのか探し始めます。

でもその前に気づくべきです。体表に経穴名は書いていないということに。何穴
を初めて使った人は、ただ体表観察をしていただけだということに。そこで経穴
を探り当て、その位置の目標として名前をつけたに過ぎないということに。

ですから大切なことは体表観察です。どのようなものをツボとするのか。そこを
まず押さえていきましょう。

次に理解すべきことは、経穴に治療効果があるのではないということです。経穴
は身体の一部のごく一点にすぎません。その経穴がどのような作用をその身体に
及ぼすのかということには本来、個人差があると考えるべきです。

人間の構造がよく似ているから、その体質やその時の状況を考えもせずに、現れ
ているかどうかもわからない何穴が何の病に効くと信じてそのツボを動かすとい
う、その発想そのものがそもそもナンセンスであるということに気がつく必要が
あります。

そのために個別具体的な人間把握の方法―弁証論治があるわけです。

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理
解する、この弁証論治の方法を提供しています。

                           伴 尚志
■言語を超えた理解を!

私どもは何を学ぼうとしているのでしょうか。何を形作ろうとしているのでしょ
うか。

中医学を学ぼうとしているわけではありません、経絡治療を学ぼうとしているわ
けではありません、漢方医学を学ぼうとしているわけではありません、東洋医学
を学ぼうとしているわけではありません。

そうではなく、目の前にいる人間をよりよく見てよりよい治療を施すにはどうす
ればいいか、ということを学びたいわけです。

ということは、まず第一に、目の前にいる人間をどのように理解すればいいのか
悩む必要があります。それがなければまず初発の心が起こりません。この道を続
けていくことができません。もし人間に興味がないのであれば始めからこの道に
入らないことです。

次に、どのようにすれば理解できるのだろうかという悩みに入ります。現代では
医学というと西洋医学が主流ですので、それを学ぶのも一つの手です。解剖を学
び生理を学びます。その精緻な分析的な手法に感動します。

けれどもそれで人間を捉えることができているのだろうか、本当にそれでいいの
だろうかと悩みます。不自然な感じがするし肉体は救われるのかもしれないけれ
ども心は救えないかも。病気は診ているかもしれないけれども人間を観てはいな
いのではないだろうか。そもそも人間を観るというのはどういうことだろう。

そこで東洋医学の一元的な人間観に出会うわけです。人と宇宙とを対応させて考
えており、人間は小さな宇宙であるという。陰陽という物差し五行という物差し
を使って、その宇宙をさまざまな角度から観ようとしているらしい。これって美
しいかもと。

そこで勉強を始めます。すると、思いのほか大量の知識の集積の前に戸惑いま
す。多くの言葉を記憶しなければそこに書いてあることを理解することすらでき
ません。まじめな人はそこで苦労していく決意を固め、いわゆる東洋医学用語を
定義しそれを使って表現する方法を学びます。そして古人の言葉を理解しその解
説までつけられるようになります。そのような作業を続けて数十年が過ぎたころ
運が良ければ再度深い迷いにはまり込むことにななります。

言葉は取りあえずわかったような気がするけれども、目の前の人間理解は進んで
いるのだろうか。評価し分析することはできるようになっている気がするのだけ
れども、本当に理解しているのだろうか。と。


存在そのものへ、存在そのものの理解を、と思う時、実は言葉は邪魔なだけだっ
たりします。言葉を通じて古人と対話し、言葉を通じて他者と対話することはで
きるわけですけれども、言葉以前に存在している人間そのものは言葉を格拒して
〔注:きっぱりと拒絶して〕そこに存在しているのです。それをどう損壊しない
ようにありのままに把握していくのか。それが陰陽五行論の基本的な発想であっ
たはずです。それなのに、いつの間にか陰陽の定義 五行の定義にはまり込ん
で、陰陽五行という自在な物差しの使い方がわからなくなってしまっています。
定義された言葉がまるで存在そのものと自分の目の間に大きな黒い雲となって広
がり、存在そのものが見えなくなってしまっているような感じです。

言葉はとても強いものなので、非常に危険です。言葉の危険のもっとも大きなも
のは、表現してしまうと理解できたような気がすることです。名前をつけてしま
うとそれをわかったような気になってしまう。多くの言葉が積み重なっていると
深い理解がそこにあるような気になってしまう。そして言葉という腐葉土の中で
一生を終えることとなるわけです。

さて、一元流鍼灸術では、その言葉を使って勉強していくわけです。けれども、
スタッフがいつも気をつけていることは、言葉におぼれない、言葉に踊らされな
い、存在そのものを理解しようとする姿勢を中心として言葉を理解し発している
ということです。ですからまだ言葉を知らない初学の方々であったとしても、お
かしいと思うことは積極的に発言していただくことで、スタッフの理解が進み一
元流鍼灸術もさらに進歩していくことができます。

一元流鍼灸術の良さは実にここ、存在に対する謙虚さ、にあるわけです。

                      伴 尚志
■臨床の場は古典発祥の地


鍼灸をやっていく上で古典を学ぶということをどのように位置づけるかというこ
とは、「どういう鍼灸をしたいのか」で、答えが出てきます。東洋医学的な観点
から身体をどのように把握するのか、ということに関心のない鍼灸師にとって
は、古典など必要ありません。指の感覚を鍛えて後は営業に徹するというのがそ
の目的に沿っているでしょう。

これに対して、あくまで東洋医学的な観点から身体を把握し治療を行いたいとい
う鍼灸師であれば、ではその東洋医学的な観点とは何か。その立ち位置はいずこ
にあるのか、と問い合わせるためだけにでも、古典を読むことは必要になりま
す。

その際にもし、東洋医学そのものがその当時の人間観を基にした観察によって成
立しているということに思い至るならば、読む必要のある古典とは、古代の人間
観を記載している哲学書や宗教書になるでしょう。これはすなわち、諸子百家を
学ばなければならないということになります。

東洋思想が揺らぎながらもゆるぎなく立っていた時代、東洋医学は東洋思想の人
間観を土台にしていました。

その思想の主流としては朱子学、儒教ということになります。宋代にできた儒教
である朱子学は、その当時の古典である春秋戦国時代の書物を体系的にまとめな
おしたものですから、東洋医学の古典である黄帝内経の人間観もこれを基にすれ
ば理解しやすいのではないだろうか、とあたりをつけています。この朱子学の基
となった太極図の解釈が、一元流鍼灸術のテキストの中で述べられているのは、
そのためです。

このような人間観を基盤として、身体感覚を磨き、経絡を発想し適用し臓腑と経
絡との関連を考え、天人相応の観点に立って不足を補いながら生きて働いている
人体の構造を体系化したものが、まさに「黄帝内経」です。

この中の臓腑経絡に関する体系化は古代人が纏め上げた東洋医学的人間観の中核
となるもので、一元流鍼灸術の柱の一つです。

しかし臨床の場は、古典発祥の地そのものです。ですから今、新たに書きとめら
れる症例報告は、それ自体が古典となっていきます。古典となすべく臨床を積み
重ねていくわけです。

古典を臨床の場で読むためには、東洋医学的な人間観が真実か否かその前提を確
認しつつ格闘し検証する作業が必要となります。そして、その結果自らの血肉と
なった人間観を手にして再度、患者さんを把握していくわけです。


                  伴 尚志
■学ぶ姿勢:二態


学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。

外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。
この内なる叡智は、仏性とも言います。

東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感
動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味を
これも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書
いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、この
あたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述
べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくあ
る「学問」の方法です。

これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自
らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機
として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出し
ていく作業を行うわけです。

考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる
叡智と学びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まってい
ます。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうに
して日常の作業と同じように積み重ねられていきます。

けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる
理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった
感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋
学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典
を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整
えてくれたわけです。


東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め
続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かという
ことは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそう
な師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上
げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。

けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということが
わかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目
の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する
場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた
者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなけ
れば何も手を下せないのです。


これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していること
を、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器
を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨く
という行為となります。

一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、内外の叡智を統合する技術なのです。


                     伴 尚志
■東洋医学の勉強法


東洋医学の勉強を始めていくうえでたぶん一番最初の障壁は経絡経穴を記憶する
ことではないかと思います。ことに経穴は体表の位置を指示する点の名前ですの
で、記憶しにくく指し示しにくいものです。一度これをしっかり記憶するように
すると、少しは東洋医学に足を突っ込んだ感じになります。

一元流鍼灸術のテキストでは今の時点でまとめることのできる東洋医学の人間観
の最前線をみることができます。東洋医学には深い伝統があります。これはまっ
すぐ前進してきたものではなく、松の木の根のように、さまざまな場面で頭を打
ちながら右へ左へ匍匐前進してできあがってきたものです。言葉が重ねられて複
雑になっているように見えるそのもっとも基礎にあるものが、人身は一小天地で
あり、宇宙と人とが相応関係にあるという概念です。そして、その宇宙をより詳
細にバランスよく理解していくために陰陽五行論があります。

このあたりの詳細は、テキスト『一元流鍼灸術の門』の総論部分に書いてありま
す。ここが基本です。臓腑経絡学は今の時点で咲いている花となります。勉強会
では弁証論治を行ない続けることによって、さらによりよい人間理解を進めるこ
とができるように悪戦苦闘しています。この悪戦苦闘が勉強会の生命であって、
現代の臓腑経絡学の構築に役立つものであると考えています。


一元流鍼灸術では気功を含めて神秘思想に足を踏み込むことはありません。個人
的な趣味で行なうことに対してどうこう言うことはないのですが、自己の内部に
中心を築き、自己を安定させるという方向に治療も個人の修養も向けていきます
ので、あたりまえに今ある自分を受け入れるというところに身を置き、神秘的な
能力を得るというあたりと関係を絶っています。

一元流では、禅を用いたりもしますけれどもこれは心身の脱落のため、すべてを
手放すためであり、何かを身につけるためではありません。心も体もお掃除を基
本とし、その当たり前の人間を理解し、治療するための人間理解の方法を提供し
ているわけです。

勉強会の場は月一回会場を借りて行なわれるオフ会と、この日々のメイリングリ
ストです。眺めるだけではなく質問することなどを通じて参加することが大切で
す。ことに基本的なところで疑問を持つというのは初心者にしかできないことで
すので、遠慮なく発言していってください。


           伴 尚志
■学びの遅速


学ぶ速度には、遅速があります。遅い人は風景が良く見えます。速い人
は次の世界に早くたどり着きます。

勉強会としては、遅い人と速い人と両方いると、その幅が広がります。
しっかりとゆっくりと歩いてくれている人は、今、その場所で、誰も気
がつかなかった発見をすることがあります。先導者の言うことをはいは
いと聞いて素直に歩いていく人よりも、その言葉が身についている場合
があります。

勉強会は、誰もその足を引っ張ることもできませんし、頭をぬきんでる
こともできません。参加している人がそのまま勉強会の外的な広がりで
あり内的な深まりだからです。その総体がその勉強会の器となるわけで
す。

そのような勉強会の中で学んでいく上でもっとも大切なことは、自分自
身の速度より早く歩かないこと。一つ一つ納得できるまで、諦めずに考
え続けることです。


                   伴 尚志
■拘わってはいけない微細なものとは何か


拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て
判断するということです。

全体観とは何かというと、一の把握ということです。

存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには
小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。

テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を
一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定め
ることができないと、妄想を構築することとなります。

妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑には
ならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段にな
ると非常な迷惑を与えることとなります。

妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人
がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみる
と、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこ
に充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。

ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべき
でないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあり
ます。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている
言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なこ
とであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなこ
とにも拘わる人までいるわけです。

「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。

実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。
東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置
きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分
自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今
存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かっ
て成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているも
のが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」
というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛
する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という
精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベル
に従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自
身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自
分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。

言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは
「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこ
そが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた、
「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。

そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけな
い微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、
遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれ
そのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、
「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。

                  伴 尚志
■見えること判ることを積み重ねる


勉強会に参加していて、どーも何をやっているのかわからない。
他の人々は見えているらしいんだけれども、自分にはどうしてもよくわから
ない。わからないからますます熱心にそこに注目するんだけれどもやっぱり
わからないという悪循環をおこしている人がいます。

これ、もったいないですね。

見えないこと判らないことは、積み重ねられません。修練を積んでいる人に
できることが、初心者にすぐできるわけもなく、修練を積んでいる人に見え
ることが、初心者にすぐ見えるわけはないんですね。

また、その人の体質や人生経験によって見やすいこと見えにくいことがあっ
たりもします。

ですから、判ることを確認していく、見えるものをどう解釈していくのか自
分の頭で考えていく。そのように心を定めることが大切です。

そのようにすると、見える範囲が少しづつ増え、見え方が少しづつ深くなり
ます。

「人間がそこに生きている」という基本的なことが見えない人はいません。
その人間を少しだけ詳しく見ていく。腹があり背があり、生きてきた歴史が
そこに刻まれている。そのあたりから少しづつより詳細に、「確実に」見え
る範囲だけを集めて、その人をより深く理解していくわけです。

そこに借り物ではない人間理解の端緒があります。確実なところを集めてそ
こから理解を深めていく。そこから借り物ではない臨床への道が開けていき
ます。

これがより誠実な治療家になっていくための、第一歩であり、いつでももっ
とも大切な基本的な歩み方となります。この誠実さを踏み外さないように、
日々の臨床のルーティーンの中に埋没しないようにしましょう。


                  伴 尚志
■患者さんの身体を読む


病因病理を考えるということは、そこに存在している患者さんの身体を読む
ということです。古代において、人は小宇宙として捉えられ、天文地理を眺
め感じ読み取ることを通じて、人身の不可思議を相似的に把握しようとしま
した。天文地理という大宇宙と人身という小宇宙の双方ともに同じ法則があ
るに違いないと考えることは、生かされている奇跡を神の恵みに違いないと
感じ取ることのできる人間にとっては当然のことでした。

身体の秘密を知るということはまさに宇宙の神秘を知ることに他ならなかっ
たわけです。


一元流の弁証論治は、この古代人の把握方法を再構成したものです。


1、四診をして情報を集めます。

2、四診の情報を、五臓の弁別として五に分けてみて、その全体像を把握し
やすくします。

3、弁別された情報を、病因病理の観点からひとつの生命の流れに寄り添う
ような形で統合し、その人の生命の有様を明らかにしていきます。

4、見えてきたものの中心を記述するのが弁証項目で、治療法を記述するの
が論治項目としています。治療法は個別具体的に繊細になりますので、初期
段階でその流れを治療指針として記載しておきます。患者さんにできること
も治療法の一種で養生法でもあります。これを生活提言として記載します。

このようにして見、このようにしてその修復方法―治療方法の概略を明らか
にしていくわけです。

実際の治療経過を通じて本当に患者さんを理解できているのかどうか。それ
を再検討するための材料が、このようにしてできあがるわけです。

             伴 尚志
以下の論文をアップしました。
今年の更新はこれが最後となります。
一年間おつきあいをくださりまして、ありがとうございました。
来年も、よろしくお願いします。

後藤流「一気留滞説」と一元流をつなぐ身体観:木村辰典著
https://1gen.jp/1GEN/RONBUN/22kimura.HTM


【目的】
後藤流に関する書籍を読んでいると、一元流とどこか繋がりを感 じるようになりました。 それも治療の枝葉ではなく、幹となる部分でそう感じるのです。 後藤流の「一気留滞説」を考察することで、その理由に少しでも迫 ることができればと思います。

【目次】
 はじめに
1.後藤艮山(1651~1725年)について
2―1.一気留滞説:「一気」とは
2ー2.一気留滞説:「元気」とは
2-3.一気留滞説:気一元の観点
3ー1.艮山の治療法:順気
3-2.艮山の治療法:灸法
4.艮山の養生
5.まとめ
参考文献

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